人新世における繁栄の再定義:経済成長主義を超えた価値観の哲学的考察
人新世と問い直される「繁栄」の概念
人新世という時代認識は、人間活動が地球の地質年代に刻印を残すほどの影響を与えている現実を突きつけます。気候変動、生物多様性の喪失、資源枯渇、窒素・リン循環の攪乱といった地球システム規模の環境変化は、従来の社会システム、特に経済活動と不可分な関係にあります。近代以降、特に産業革命を経て、多くの社会で「繁栄」は主に経済成長、すなわちGDPの拡大によって測られてきました。この経済成長主義は、資源の無尽蔵な利用と環境への負荷を前提としていた側面があり、地球の有限性が顕在化した人新世においては、その限界が露呈しています。
このような状況下で、我々は何をもって「繁栄」と見なすべきかという根源的な問いが哲学的に重要性を増しています。単なる物質的な豊かさや経済規模の拡大が、地球の持続可能性と両立しないならば、あるいはそれが多くの人々の真のwell-beingや幸福に必ずしも繋がらないとすれば、人新世における新しい「繁栄」の定義が必要とされていると言えるでしょう。これは、単に経済指標を修正する技術的な問題ではなく、人間の存在目的、社会のあり方、自然との関係性といった、価値観の根幹に関わる哲学的課題です。
「繁栄」概念の系譜と現代における問い
哲学において、「良い生き方」や「良い社会」に関する探求は古くから行われてきました。例えば、アリストテレスは人間の「繁栄」や「よく生きる」ことをエウダイモニア(eudaimonia)と呼び、単なる快楽や富の蓄積ではなく、人間の本質的な機能(理性的な活動)を徳に従って十全に発揮することの中にその本質を見出しました。これは、活動や関係性の中に価値を見出す視点であり、物質的なストックやフローに偏重する現代の経済成長主義とは異なる次元の議論を提供します。
近代に入ると、特に功利主義の思想は、最大多数の最大幸福を社会全体の目標と設定し、経済的な豊かさがその主要な手段と見なされる傾向を生みました。市場原理に基づいた経済活動の自由と効率性が追求され、それが社会全体の幸福(繁栄)に繋がるという考え方が主流となっていきました。この思想は産業革命と結びつき、飛躍的な経済成長と物質的な豊かさをもたらしましたが、同時に環境負荷の増大や社会的な不平等といった負の側面も引き起こしました。
人新世においては、地球の物理的な限界が明らかになる中で、GDPのような経済指標が必ずしも真の「繁栄」を捉えきれていないという批判が高まっています。GDPは環境破壊のコストや、無償のケア労働、地域社会の繋がりといった非市場的な価値を適切に評価しません。アマルティア・センが提唱した潜在能力(capabilities)のアプローチのように、人々が実際にどのような「being」や「doing」を達成できるか、その自由度に焦点を当てる考え方は、単なる所得や消費量ではない、より人間的な豊かさを捉えようとする試みとして重要です。人新世における繁栄の問いは、この潜在能力アプローチを非人間存在や生態系全体にまで拡張する必要性を示唆しているかもしれません。
環境哲学・政治哲学からの視点
環境哲学の観点からは、繁栄を人間中心主義的な枠組みだけで捉えることへの根本的な批判が生まれます。自然を単なる資源や人間の幸福の手段としてではなく、それ自体の内在的価値を持つものとして尊重する考え方は、人間社会の繁栄が生態系の健全性に依存しているという事実、そして生態系そのものがある種の「繁栄」( flourishing)を必要としているという洞察に繋がります。人新世における繁栄は、人間社会のwell-beingのみならず、生態系全体のwell-beingを含み込む概念として再構築されるべきではないでしょうか。
政治哲学の側面からは、繁栄の分配の問題が浮上します。現在のグローバルな経済システムの下では、一部の国や人々が過剰な消費と環境負荷を享受する一方で、多くの人々が貧困にあえぎ、さらに環境破壊の最も深刻な影響を受ける傾向にあります。人新世における繁栄の再定義は、単に総体的な豊かさの議論に留まらず、世代間の正義(未来世代への責任)や、グローバル・ノースとグローバル・サウス間の公正な資源配分、そして非人間存在に対する配慮を含んだ、より広範な環境正義の視点と不可分です。定常型経済や脱成長といったアイデアは、無限の拡大を前提としない経済システムにおいて、いかに公正で持続可能な「繁栄」を分かち合うかという政治哲学的な問いを投げかけます。
価値観の転換と実践への課題
人新世における繁栄の再定義は、我々の価値観の根本的な転換を求めます。所有や消費といった物質的な側面に重きを置く文化から、関係性、ケア、参加、そして生命そのものの営みといった非物質的な価値を重視する文化への移行が必要とされていると言えます。これは、単なる個人の意識変革だけでなく、経済システム、政治構造、教育、メディアといった社会全体のシステム変革を伴う壮大な課題です。
例えば、経済システムにおいては、GDPに代わる新しい指標(例:真の進歩指標 GPI, 包括的な富計量)、サーキュラーエコノミーへの移行、自然資本や社会関係資本を価値評価に組み込む試みなどが進められています。政治においては、長期的な視点を取り入れた政策決定メカニズム、市民参加の促進、そして国際協力の強化が不可欠です。教育は、人新世の現実を理解し、多様な価値観を認め、協働して未来を創造する能力を育む役割を担います。
しかし、このような価値観の転換は容易ではありません。長年にわたり社会に根付いた経済成長至上主義や、物質的な豊かさを追求する慣習は強力です。また、異なる文化や思想的背景を持つ人々の間で、「良い社会」や「繁栄」について合意を形成することも困難を伴います。
結論:対話と探求の継続
人新世における「繁栄」の再定義は、単一の正解を持つ問いではありません。それは、生態学、経済学、社会学、文化論といった様々な分野の知見を参照しつつ、環境哲学、政治哲学、倫理学、存在論といった哲学の諸分野が横断的に関与する、継続的な対話と探求を要する課題です。
我々は、地球の有限性を受け入れつつ、いかにしてすべての人々(そして非人間存在)が尊厳を持って生きられる社会を築くことができるのか。物質的な豊かさの追求が、真の幸福や生態系の健全性とどのように両立しうるのか、あるいは両立しない部分があるのか。これらの問いに対し、歴史上の思想家たちの知恵を参照し、現代の科学的知見や社会状況を踏まえ、そして異なる立場の人々との開かれた対話を通じて、我々は新しい「繁栄」のヴィジョンを共に紡ぎ出していく必要があるでしょう。人新世における繁栄の哲学は、過去から現在、そして未来へと続く、人間存在と地球との関係性を問う壮大な試みなのです。