人新世における「野生」の再定義:自然、人間、そして非決定性への哲学的考察
人新世における「野生」概念への問い
人新世という地質時代において、人間活動は地球のシステム全体に遍く影響を及ぼしています。気候変動、生物多様性の損失、化学物質による汚染など、かつて「自然」あるいは「野生」と呼ばれた領域も、今や人間の痕跡から逃れることはできません。このような状況は、私たちが長らく依拠してきた「野生」という概念そのものに、根源的な問いを投げかけています。人間活動の「外」に存在する手つかずの自然というイメージは、もはや現実を捉えるのに十分ではないのかもしれません。本稿では、人新世における「野生」概念の変容とその哲学的な意味について考察します。
古典的な「野生」概念とその限界
西洋の思想史において、「野生(wilderness)」はしばしば、人間の手が入らない、コントロール不能な自然として、文明や文化と対比されてきました。荒々しく危険なものとして恐れられる一方で、ロマン主義においては、人間が失った純粋さや根源性、崇高さの源泉として理想化される側面もありました。この概念は、人間を自然の外部に位置づけ、自然を観察・管理・利用の対象として捉える人間中心主義的な枠組みの中で形成されてきたと言えます。
しかし、人新世においては、大気組成の変化、海洋酸性化、土地利用の変化など、地球規模での人間活動の影響が明らかになっています。国立公園のような保護区ですら、その生態系は外部からの汚染や気候変動の影響を受けています。もはや地球上に、人間の影響を全く受けていない場所を見出すことは極めて困難です。この現実は、古典的な意味での「野生」、すなわち「人間の手の届かない領域」としての野生が、その実質を失いつつあることを示唆しています。この概念の限界に直面し、私たちは「野生」をどのように理解し直すべきなのでしょうか。
人新世における「野生」の新たな様相
人新世における「野生」は、もはや人間活動から完全に隔離された場所ではなく、人間活動との複雑な相互作用の中に現れる現象として捉え直す必要があると考えられます。いくつかの視点から、その新たな様相を考えてみます。
まず、人間活動の影響下にある「野生」という側面があります。都市部に適応した野生生物、管理された森林、あるいは農業や工業活動によって改変された土地に現れる植生など、これらは古典的な意味での「野生」とは異なりますが、人間の直接的な管理下には置かれていない生態系やプロセスを含んでいます。これらは、人間が意図しない結果として生じた「野生的なもの」と言えるかもしれません。
次に、「ハイブリッド」な自然という視点です。人新世においては、人工的なものと自然なものの境界が曖昧になります。例えば、遺伝子組み換え生物が生態系に組み込まれる可能性、都市の緑化、あるいは修復された生態系などです。これらは、人間の技術やデザインと自然のプロセスが組み合わさることで生まれる、新たな形の「野生」とも解釈できます。ここでは、「野生」は純粋な自然ではなく、人間と自然のダイナミックな相互作用の結果として生じる「生成変化」や「非決定性」の様相を帯びています。
さらに、「非決定性」としての「野生」という捉え方もあります。人新世における地球システムは、極めて複雑で非線形な振る舞いを示し、その将来の軌道は人間の予測や制御をしばしば超え去ります。気候システムの閾値(ティッピング・ポイント)を超える可能性や、予測不能な生態系の応答など、人間の介入がもたらす不可逆的で非決定的な変化は、ある意味で古典的な「野生」が持っていたコントロール不能性や自律性といった側面を、地球システム全体が獲得したようにも見えます。この非決定性こそが、人新世における「野生」の本質的な現れであるという見方も可能です。
「野生」の再定義が投げかける哲学的な問い
人新世における「野生」概念の変容は、私たちの存在論的、倫理的、政治哲学的な理解に深い問いを投げかけます。
存在論的な問いとしては、「野生」を場所ではなく、人間を含む複数のアクター間の動的な「関係性」や「プロセス」として捉え直すべきか、という点があります。人間はもはや「野生」の外からそれを観察・管理する主体ではなく、その内部に組み込まれたアクターとして、他の存在者(非人間的なアクター)との相互作用の中で自らを位置づける必要に迫られています。これは、人間存在そのものの理解のあり方を問い直すものです。
倫理的な問いも重要です。人間が影響を与え、あるいは半ば創造したような「野生」に対して、私たちはどのような倫理的責任を負うのでしょうか。自然保護の目的は、人間の影響を排除した「野生」を理想として維持することなのか、それとも人間と共存しうる多様でレジリエントな生態系を育成することなのか、といった問いが生じます。「自然への不介入」という従来の倫理原則が、遍く人間影響が及ぶ世界でどこまで有効か、あるいはどのような新たな介入の倫理が必要となるかが問われます。
政治哲学的な問いとしては、「野生」の定義や管理を巡る権力関係が挙げられます。誰が「野生」をどのように定義し、誰がそれを保護または利用する決定権を持つのか、といった問題は、グローバルな環境ガバナンスにおいて中心的な課題となります。古典的な「野生」概念が特定の文化的・歴史的背景を持つものであるとすれば、その再定義は多様な文化や知識体系からの視点を取り込む必要があり、それは同時に権力の再配分を伴う可能性を含んでいます。
新しい「野生」概念へ向かう示唆
人新世における「野生」を、人間活動との相互作用の中で生まれる「非決定性」「自律性」「生成変化」といった側面から捉え直すことは、単なる概念の更新に留まりません。それは、人間が自然を完全に制御できるという管理幻想から脱却し、地球システムの複雑性と非決定性に対する謙虚な姿勢を促すものです。
新しい「野生」概念は、人間が自然を外部の対象としてではなく、自らもその一部である複雑なシステムとして理解し、その予測不能性や自律性をある程度受け入れる共生的な関係性の構築へと私たちを導く可能性があります。これは、人間中心的な自然観を超え、非人間的な存在者との倫理的な関係性を問い直すポスト人間主義的な視点や、生命システム全体のレジリエンスと多様性を重視するエコロジカルな倫理へと繋がるでしょう。
結論:対話の必要性
人新世における「野生」概念の再定義は、科学的な知見、哲学的な考察、文化的な多様性、そして具体的な環境問題への対処が交錯する、極めて学際的な課題です。この問いは、既存の学問分野の枠を超え、異なる思想的背景を持つ人々との深い対話を必要としています。
「野生」という概念が崩壊したのではなく、新たな、より複雑で多義的な様相を呈しているという認識は、私たちが人新世においていかに自然と向き合い、いかに自己を理解し、いかに未来を構想すべきかという、根源的な問いを掘り下げるための重要な出発点となります。この問いに対する答えは容易ではありませんが、それ自体が、人新世における人間存在のあり方を深く考察するための豊かな対話の源泉となるでしょう。