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人新世のリスク哲学:予測不可能性と不可逆性に向き合う

Tags: 人新世, リスク, 不確実性, 哲学, 環境倫理, 認識論

はじめに:人新世が突きつける不確実性とリスクの質

人新世という地質年代の提唱は、人類の活動が地球システムに与える影響が、もはや単なる局所的な現象ではなく、惑星規模で不可逆的な変化を引き起こしうる段階に至ったことを示唆しています。気候変動、生物多様性の急速な喪失、窒素・リン循環の攪乱など、その具体的な徴候は多岐にわたります。これらの環境問題が従来の環境問題と質的に異なる点の一つに、事象の複雑性、時間的な遅延、そして予測の困難さ、すなわち「不確実性」の高さが挙げられます。

経済学やリスク論において、リスクは通常、確率分布を用いて将来の事象を定量的に予測できる状況を指します。これに対し、不確実性は確率計算が困難、あるいは不可能な状況を指す言葉として用いられることがあります(フランク・ナイトによる区分など)。人新世における環境問題、特に気候変動のような複雑系に関連する問題は、単なる確率計算のリスクの範疇を超え、しばしば根源的な不確実性を伴います。気候システムの非線形性、複数のティッピングポイントの存在、社会経済システムの予測不可能性などが、未来の軌道を極めて不確か Gbzていすまないものにしています。さらに、これらの変化の多くは、一度生じると人間的な時間スケールでは元に戻せない「不可逆性」を帯びています。

この予測不可能性と不可逆性という特徴は、私たちの認識、倫理、そして政治のあり方に根源的な問いを投げかけています。本稿では、人新世におけるリスクと不確実性の問題を、既存の哲学的な議論を参照しつつ、いくつかの視点から考察してみたいと思います。

リスクと不確実性に関する哲学的問い

人新世の環境問題が内包する不確実性は、様々な哲学的な問いを浮き彫りにします。

まず、認識論的な問いです。私たちは、これほどまでに複雑で非線形な地球システムの変化を、どこまで認識し、予測することができるのでしょうか。気候モデルは精緻化されていますが、それでも将来の排出量シナリオ、システムの応答、地域的な影響などには大きな不確実性が伴います。科学的な知識の限界と、それに基づいた政策決定の正当性はどう関係するのでしょうか。科学哲学におけるモデル論、不確実性の表現方法、そして専門知の役割に関する議論は、人新世の文脈で改めて重要性を増しています。例えば、科学的知見の限界を知りつつも、それに基づいて行動を決定せざるを得ない状況は、認識論的な謙虚さと実践的な要請との間の緊張関係を示しています。

次に、存在論的な問いがあります。不可逆的な変化、例えば種の絶滅や特定の生態系の崩壊は、人間存在にとってどのような意味を持つのでしょうか。世界が不可逆的に変化していくという事実は、安定性や連続性といった従来の自然観、あるいは歴史観にどのような影響を与えるのでしょうか。また、人間が引き起こした変化が、他の生物や地球システム自体の存在様式に影響を与えるという事態は、人間と非人間存在との関係性をどのように再定義する必要があるのかという問いを促します。メルロ=ポンティの現象学的な身体論や、ハイデガーの存在論における「世界内存在」といった概念は、人間が環境と切り離せない存在であることを示唆しますが、人新世はさらに、人間が環境を決定的に改変し、その結果として自己を取り巻く世界の存在論的な基盤をも揺るがす可能性を提示しています。

さらに、倫理的な問いは避けて通れません。不確実性の下で、将来世代や非人間存在に対する責任をどのように果たすべきでしょうか。ウルリッヒ・ベックが提起した「リスク社会」論は、近代化が新たなリスクを生み出し、それが社会全体に降りかかる様相を描写しましたが、人新世のリスクはさらにグローバルかつ長期的なスケールを持っています。ハンス・ヨナスは、技術文明の力が増大した時代における倫理として、未来の人間存在に対する責任を強調し、「希望の原理」ではなく「責任の原理」を提唱しました。彼の定言命法「汝の行為の結果が、地球上における真の人間の生命の永続性と両立しうるように行為せよ」は、不確実な長期的な影響を考慮することの重要性を示しています。不確実性が高いほど、最悪の事態を回避するための予防原則の適用が論じられますが、その哲学的な根拠や適用範囲については依然として議論があります。

最後に、政治哲学的な問いです。不確実なリスクに集団としてどのように対処していくべきでしょうか。専門家の意見、政策決定者の判断、市民の理解と参加はどのように調整されるべきでしょうか。リスクコミュニケーションのあり方、民主的なプロセスにおける科学的知見の位置づけ、そしてグローバルな問題に対する国際協力と国家主権の問題など、多くの課題が存在します。ブルノー・ラトゥールは、近代の科学と政治の分離(「自然」と「社会」の分離)が人新世のようなハイブリッドな問題に対応できないと批判し、「アクターネットワーク理論」を通じて非人間アクター(気候、ウイルスなど)をも包摂した新たな政治生態学を提唱しています。不確実性下の意思決定は、単なる合理的な最適化ではなく、価値観の対立、権力関係、そして信頼といった要素が複雑に絡み合う領域であることを認識する必要があります。

関連する哲学的視点と他分野との連携

人新世のリスクと不確実性というテーマは、様々な哲学的な伝統や他分野の知見と結びつきます。

例えば、フランクフルト学派の思想は、啓蒙の弁証法を通じて、理性が自然を支配しようとする過程で、かえって非合理性や新たなリスクを生み出す側面を鋭く批判しました。人新世は、まさに自然に対する人間の理性の支配が、意図せざる、あるいは予測しえなかった破滅的な結果を招きうることを示していると言えるでしょう。

実存哲学は、人間の有限性、不確実性の中での自由な選択と責任といったテーマを扱います。人新世は、人類全体の存在が、自らの行為によって不確実な未来に直面しているという、かつてない集団的な実存的状況とも解釈できます。不安(Angst)という概念は、可能性と不可能性、自由と有限性の間で揺れ動く人間の状態を表しますが、人新世の不確実性は、まさに人類全体の未来に対する根源的な不安を呼び起こしていると言えるかもしれません。

また、リスクや不確実性の科学的な側面を理解するためには、気候科学、生態学、複雑系科学などの自然科学との対話が不可欠です。これらの分野は、システムの振る舞いのモデル化、予測の限界、不確実性の定量化(あるいは定性的な評価)に関する重要な知見を提供します。さらに、経済学における割引率の問題は、長期的な不確実なリスクを現在の意思決定にどのように組み込むかという倫理的な問いと深く関連しています。社会学歴史学は、過去のリスクに対する社会の応答、専門家と市民の関係性の変化、そして特定の技術や社会システムがどのようにリスクを生成・分配してきたかについての洞察を与えてくれます。

結論:不確実性との共存へ向けた哲学的探求

人新世におけるリスクと不確実性の問題は、単に科学的な予測精度を高めることや、技術的な解決策を見出すことだけでは対処しきれない、根源的な哲学的課題を含んでいます。それは、人間の認識能力の限界、人間存在のあり方、他者や未来に対する責任の範囲、そして集団としての意思決定のプロセスといった、哲学の最も基本的な問いに再び立ち返ることを私たちに求めています。

人新世の不確実性は、私たちに謙虚さを要求します。将来を完璧に予測することは不可能であることを認めつつも、最悪のシナリオを回避するために、また取り返しのつかない変化を防ぐために、どのように行動すべきか。これは、知識の限界の中でいかに「よく生きる」かという、古来からの倫理的な問いの、惑星規模での再定式化であるとも言えます。

不確実性との共存は、科学的な合理性だけでなく、倫理的な直観、政治的な対話、そしておそらくは、リスクや脆弱性を受け入れるための新たな存在論的な態度をも必要とします。人新世におけるリスク哲学の探求は、予測不可能性と不可逆性という現実から目を背けることなく、それらを深く理解し、その中で責任ある未来をどのように構想し、構築していくかという、困難しかし避けがたい対話の始まりを告げています。この対話には、既存の学術分野の壁を超え、多様な思想や知見を結びつける試みが不可欠となるでしょう。