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人新世における科学知の変容:不確実性、予測、そして知の責任をめぐる哲学

Tags: 人新世, 科学哲学, 認識論, 不確実性, 責任, 倫理

人新世における科学知の変容:不確実性、予測、そして知の責任をめぐる哲学

人新世という時代認識は、地球システムにおける人間活動の不可逆的な影響を、主に科学的な知見に基づいて成立しています。大気中の二酸化炭素濃度の上昇、地球平均気温の上昇、生物多様性の喪失、海洋酸性化といった現象は、地球科学、生物学、気候科学といった分野の研究によって観測され、そのメカニズムが解明されてきました。しかし、この人新世を特徴づける環境問題は、従来の科学が対象としてきた現象とは異なる特異性を持っています。それは、地球システムが持つ途方もない複雑性、現象の長期性・大規模性、そして決定的なレベルでの予測が困難な不確実性です。これらの特異性は、単に「より難しい科学的問題」であるというだけでなく、人間が世界をいかに認識し、それに基づいていかに責任を果たし、未来をいかに構想するかという根源的な問いを、哲学的な次元で再提起しています。

不確実性の中で知るということ

人新世における科学知の根幹にあるのは、しばしば「不確実性」(uncertainty)です。気候変動予測モデルは、物理法則に基づきながらも、初期値のわずかな違いや、雲や海洋循環のような複雑なフィードバック機構の表現の限界から、予測に幅(レンジ)が生じます。生態系モデルもまた、種の相互作用や環境変化への応答の非線形性ゆえに、予測は確率的なものとならざるを得ません。このような不確実性は、科学の限界を示すものではなく、むしろ複雑系やカオス理論が明らかにしたような、対象そのものが持つ性質の反映であると言えます。

従来の科学観においては、真理は客観的であり、適切に観察と実験を行えば、確実な知識が得られると期待されてきました。しかし、人新世の地球システムは、グローバルな規模で行われる「実験」(例えば、大気組成の大規模な変化)であり、その結果は唯一無二の出来事として展開されます。再現実験は不可能であり、我々は進行中のプロセスを観測し、過去の痕跡から推論し、モデルを用いて未来を「予測」するしかないのです。

この不確実性は、知の役割そのものを問い直します。科学知は、もはや確固たる基盤として、そこから直接的に唯一の「正しい」行動を導き出すような性質のものではなくなっています。むしろ、それは可能性の幅を示し、リスクを提示し、意思決定に必要な情報を部分的に提供するものです。この状況下で、科学知はどのように「権威」を持ちうるのか、そしてその知をいかに受容し、いかに批判的に検討するべきなのかが問われます。

科学知の社会性と政治性

人新世における科学知は、純粋な客観的探求の産物であると同時に、深い社会性・政治性を帯びています。科学研究の優先順位、資金配分、そして研究結果の解釈や伝達は、社会的な関心、価値観、そして権力構造の影響を避けられません。例えば、気候変動の科学的コンセンサスが確立されてもなお、それが政策決定や世論形成に及ぼす影響は、単に知が伝わるか否かの問題ではなく、特定の経済的・政治的利害が絡む複雑なプロセスとなります。

科学技術社会論(STS)の視点から見れば、科学的事実は社会的に「構築」される側面を持っています。ここでいう「構築」とは、事実が恣意的であるという意味ではなく、事実として受け入れられる過程に、様々なアクター(科学者、政策決定者、産業界、市民団体、メディアなど)の交渉や相互作用が含まれるということです。ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論のような考え方は、地球システムの知が、人間的アクターと非人間的アクター(例えば、気候モデル、データ、地層)が織りなすネットワークの中で生成され、流通していく様子を分析する上で示唆に富みます。

このような科学知の社会性・政治性は、知が「誰の」ために「どのように」用いられるのかという倫理的な問いに直結します。特定の科学知が過度に強調されたり、逆に無視されたりすることで、環境不正義が生じる可能性もあります。知の生産と流通における透明性、多様な声の包含、そして民主的なプロセスが、人新世における科学知の信頼性を確保し、その責任ある利用を担保するために不可欠であると考えられます。

不確実な知における責任

人新世の科学知が持つ不確実性は、人間の責任概念にも深い影響を与えます。伝統的な責任論は、特定の原因と結果の間の明確な因果関係に基づいていました。しかし、複雑な地球システムにおいては、個々の行為(例えば、ある個人や企業の排出活動)が、集合的な結果(地球平均気温の上昇や異常気象)にどのように寄与しているかを明確に特定することは極めて困難です。さらに、その影響は世代を超えて及び、未来世代に対する責任という、時間的に拡張された責任を問う必要が生じます。

ハンス・ヨナスの責任原理が未来世代への責任を強調したように、人新世は責任の地平線を遠未来にまで拡張することを求めます。しかし、その遠未来は不確実な科学的予測に基づいており、何に対して、誰が、どの程度の責任を負うべきかという問いはさらに難しくなります。不確実性の中で行動しないこと自体がリスクであり、しかし行動することが予期せぬ結果を招く可能性もあります。

カール・ヤスパースは、政治的罪責、道徳的罪責、形而上学的罪責といった複数のレベルで責任を論じました。人新世における知の責任もまた、複数のレベルで捉え直す必要があるかもしれません。科学者は、知の不確実性や限界を誠実に伝える道徳的責任を負います。政策決定者は、不確実な知に基づいて最善のリスク管理を行う政治的責任を負います。そして我々市民は、そのような複雑な知に真摯に向き合い、無知を言い訳にしないという、ある種の形而上学的な、あるいは存在論的な責任を負うのかもしれません。知ることそのものが、行動への、そして世界への関与を不可避にするからです。

まとめと今後の課題

人新世は、人間と地球の関係性だけでなく、人間の「知る」という行為そのもの、そして知と責任、知と倫理、知と政治の関係性を根源的に問い直す時代です。科学知は、この時代の羅針盤となる重要な情報を提供しますが、それは不確実性を内包し、社会政治的な文脈から切り離せないものです。

不確実性の中でいかに真摯に知と向き合い、責任ある行動へと繋げるかは、喫緊の哲学的課題です。これは、科学哲学、認識論、倫理学、政治哲学といった既存の枠組みを超え、異分野間の対話を深めることを求めています。また、科学知だけでなく、土着知や経験知、あるいは芸術的な表現がもたらす知覚や理解といった、多様な知の形式が持つ可能性にも目を向ける必要があるでしょう。

人新世における知の変容を哲学的に考察することは、単に知の問題を論じるだけでなく、人間が不確実な未来といかに向き合い、いかに共生していくかという、存在論的な問いへと繋がっていくのです。