アンスロポセン・ダイアログ

環境危機の語り直し:人新世における物語の力と新しいエトスをめぐる哲学的考察

Tags: 人新世, 物語論, 環境哲学, エトス, 環境危機

人新世という時代の物語論的挑戦

人新世という地質学的時代区分は、人類活動が地球システム全体に決定的な影響を与えるようになった現代を指し示しています。この認識は、単なる科学的な事実の提示に留まらず、従来の人間と地球の関係性、あるいは人間社会のあり方に関する根源的な物語を揺るがす哲学的挑戦を含んでいます。私たちは長い間、進歩史観や、自然を資源として開発し支配する人間中心主義的な物語、あるいは際限のない経済成長を是とする物語の中に生きてきました。これらの物語は、一定の繁栄をもたらした側面もありますが、同時に、気候変動、生物多様性の喪失、資源の枯渇といった深刻な環境危機を不可視化し、あるいは加速させてきた構造的な要因でもあったと考えることができます。

現代において、私たちは科学的なデータや専門家の警告に日々触れています。しかし、これらの知見が必ずしも広範な行動変容や価値観の転換に直結しているわけではないことは、多くの議論の対象となっています。このギャップを埋めるためには、単なる事実の羅列や論理的な説明だけでは不十分であり、人間の深い感情や集合的な意識に働きかける「物語」の力が不可欠であるという視点が重要になります。従来の物語が環境危機によってその説得力を失い、あるいは破綻しつつある今、人新世という時代は、私たちに新しい物語を紡ぐことを求めているのではないでしょうか。どのような物語が、この未曽有の時代において、私たちの環境認識を変え、新しい倫理的行動や共同体のあり方を導きうるのか。これは、人新世における極めて重要な哲学的問いであると言えます。

従来の物語の解体と新しい「神話」の必要性

人新世の認識は、人間が地球の歴史における主要な作用因となったという事実を突きつけます。これは、これまで自律的であると考えられてきた「自然」概念の変容を意味すると同時に、人間と自然を二項対立的に捉える西洋哲学の伝統的な枠組みにも揺さぶりをかけています。このような状況下で、自然を外部の対象として操作・管理するという物語、あるいは人間が地球の頂点に立つ例外的な存在であるという物語は、その根拠を失いつつあります。

また、経済的な豊かさが幸福に直結するという物語、あるいは技術進歩があらゆる問題を解決するという物語も、環境危機の前ではその限界を露呈しています。これらの物語は、資源の有限性や生態系の複雑な相互依存関係を見落とし、持続不可能な社会構造を正当化する役割を果たしてきました。環境危機は、私たちがこれまで当然視してきた世界観や価値観が、もはや現状に適合しないことを示唆しています。

フランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールは、近代が依拠してきた二分法(自然/文化、主体/客体など)を批判し、人間を含む多様なアクター(行為者)からなるネットワークとして世界を捉え直す必要性を説きました。人新世における新しい物語は、このような脱二元論的な視点を取り入れ、人間だけでなく、他の生物種、地球システムそのもの、さらには技術やインフラといった非人間存在をも、共に世界を構成するアクターとして位置づける必要があるかもしれません。これは、人間中心主義的な物語からの脱却であり、世界との関係性を再構築する試みと言えます。

新しい物語を紡ぐことは、ある意味で新しい「神話」を創造することに似ています。ここでいう神話は、科学的事実と対立するような非合理的なフィクションという意味ではなく、ある共同体の価値観、世界観、そしてアイデンティティを形成する共有された象徴的物語という意味です。人類学や宗教学は、神話がいかに人間の集合的な行動や規範を導いてきたかを明らかにしてきました。人新世という共通の危機に直面する中で、私たちは、地球の生命システムとの新しい関係性を基礎とする、共有可能な物語、すなわち新しい「人新世の神話」を必要としているのかもしれません。

多様な物語の探求とエトスの醸成

では、具体的にどのような物語が考えられるでしょうか。まず、科学的知見を創造的に織り込んだ物語の力が挙げられます。気候変動の予測モデルや生態系のデータといった無味乾燥に見える情報を、人間の経験や感情に結びつく物語として語り直す試みは、データ・ナラティブとして注目されています。例えば、ある地域の生態系の崩壊の歴史を、そこに暮らす人々の生活や文化の変遷と重ね合わせて語ることで、抽象的な科学データが個人的な、あるいは共同体的なリアリティを持つようになります。

また、世界各地の多様な文化が持つ、人間と自然の関係に関する物語や神話から学ぶことも重要です。西洋的な人間中心主義や開発主義の物語とは異なる視点を持つ土着の知恵や宇宙観は、人新世における新しい共生関係のヒントを与えてくれる可能性があります。これらの物語は、自然を敬い、共生し、循環の一部として自己を位置づけるような価値観を内包していることが多いからです。

さらに、未来世代や他の生物種に対する責任を物語の中で具体的に描くことも有効でしょう。単なる義務としてではなく、未来世代の可能性を奪うことの悲劇や、多様な生命の営みの美しさを描く物語は、共感や連帯の感情を呼び起こし、倫理的な行動を促す力を持つと考えられます。これは、倫理学における未来世代への責任論や、環境倫理学における種間倫理といった議論を、より多くの人々に「感じられる」ものとして伝えるためのアプローチでもあります。

このような多様な物語の探求は、人新世における新しいエトス、すなわち共同体の精神や倫理的性格を醸成する上で不可欠です。エトスは単に個人の倫理観の集合ではなく、共有された物語やシンボル、実践を通じて育まれる集合的な規範性です。人新世の危機に対応するためには、自己利益だけでなく、他者、未来世代、そして地球全体への配慮を組み込んだ新しいエトスが必要です。レジリエンス(回復力)、ケア(配慮)、連帯、脆弱性の認識といった要素を含む物語は、このような新しいエトスの形成に寄与するでしょう。

ハンナ・アレントは、人間の行為や出来事を「物語」として語ることで、その意味が理解され、行為者が自己のアイデンティティを確立すると論じました。人新世において、私たちはもはや過去の物語の中に安住することはできません。自らの行為の結果として地球システムに影響を与えている現代において、私たちは、これまでの物語を批判的に検討し、自らの存在と地球との関係性を捉え直す新しい物語を積極的に紡ぎ、共有していく責任を負っていると言えるでしょう。

未解決の問いと物語の実践

人新世における物語の探求は、多くの未解決の問いを含んでいます。果たして、グローバルな危機に対応しうる普遍的な物語は可能なのでしょうか。あるいは、ローカルで多様な物語の共存こそが、多様なレジリエンスを生み出すのでしょうか。また、物語はどこまで現実の政治や経済の構造を変革する力を持つのでしょうか。物語が単なる慰めや現実逃避に終わるリスクはないのでしょうか。

これらの問いは容易に答えが見つかるものではありません。しかし、物語を紡ぎ、共有し、対話し、そして更新していくプロセスそのものが、人新世という不確実な時代を生きる私たちの重要な実践となるはずです。文学、芸術、教育、そして日々の対話の中で、私たちは新しい物語の可能性を探り続けています。

人新世は、単なる環境問題の時代ではなく、私たちの存在、価値観、そして世界との関係性に関する根源的な問いが突きつけられる時代です。この時代において、物語の力は、科学的な知見や技術的な解決策と並び、私たちが危機を乗り越え、より持続可能で公正な未来を創造するための重要なツールとなるでしょう。それは、私たち自身が、この地球という惑星における生命の物語の一部であることを深く認識することから始まるのです。