人新世の場所論:移動性と定住性のはざまで問われる環境倫理
人新世における「場所」概念の変容と哲学的な問い
人新世という時代認識は、単に地質学的な区分にとどまらず、人間存在の根源的なあり方や地球システムとの関係性を哲学的に問い直す契機を提供しています。この文脈において、私たちは自身の存在基盤である「場所」について、新たな視点から考察する必要があります。近代以降、科学技術の発達やグローバリゼーションは、物理的な距離を克服し、人々の移動性を飛躍的に増大させました。同時に、経済活動のグローバル化は、特定の場所から切り離された資本や情報の流れを生み出し、「場所の力」を相対的に低下させてきたとも言えます。しかし、人新世における環境問題、特に気候変動や生物多様性の喪失といった課題は、特定の場所や地域に甚大な影響を及ぼし、同時に地球全体としての不可分な相互関連性を浮き彫りにしています。
このような状況下で、従来の哲学や社会科学における「場所」に関する議論は、人新世の現実に対してどこまで有効であるか、という問いが立ち上がります。アリストテレス以来の物理的な位置としてのトポス、あるいは現象学が探求した身体や経験に根差した場所の感覚、さらには社会学や地理学が論じてきた社会構造や文化に紐づく場所性など、多様な「場所論」が存在します。しかし、人間活動が地球規模のシステムに影響を与え、不可逆的な変化を引き起こす人新世において、私たちは自身が立つ場所と、その場所の外部、あるいは未来における場所との関係性をどのように理解すべきでしょうか。特に、高度な移動性が環境負荷と密接に関わる現代において、「定住」に基づく従来の環境倫理や責任論は、どこまでその射程を保てるのでしょうか。
移動性の増大と場所への責任の希薄化
近代以降の進歩主義的な思潮は、しばしば物理的・地理的な制約からの解放として移動性の向上を位置づけてきました。交通手段や情報技術の革新は、かつては想像もできなかったような広範な移動と交流を可能にし、人々の生活圏や意識をグローバルなスケールへと拡張させました。しかし、この移動性の増大は、資源の大量消費や温室効果ガスの排出といった形で、地球環境に深刻な負荷をかけています。航空機による移動、グローバルなサプライチェーンに基づく物流、さらにはデジタル技術を介した情報の高速移動でさえ、インフラ構築やエネルギー消費という形で特定の場所や地球全体に影響を与えています。
このような文脈で問題となるのは、自己の行為が引き起こす環境影響が、行為が行われた場所から空間的・時間的に切り離されてしまうという非局所性の問題です。例えば、ある場所での消費活動が、遠隔地の森林破壊や鉱物資源の枯渇、あるいは未来における気候変動という形で影響を及ぼします。高度な移動性は、このような影響の連鎖を加速させると同時に、個人が自身の行為と環境負荷との直接的なつながりを認識しにくくする側面を持っています。私たちは、自分が「いる場所」から簡単に「離れる」ことができるようになったがゆえに、その場所や、自らの活動が影響を与える遠隔地の場所、そして未来の場所に対する責任感覚を希薄化させていないでしょうか。これは、イーフー・トゥアンが論じた場所への愛着(トポフィリア)のような感情や倫理が、グローバルな移動性のもとでいかに変容し、あるいはその限界に直面しているのかを哲学的に問うものです。
定住性に基づく環境倫理の意義と限界
移動性の増大に対する応答として、しばしば「定住性」や「ローカリズム」に基づく環境倫理が強調されます。これは、特定の場所に根差し、その土地の自然や文化を深く理解し、地域コミュニティの一員としての責任を果たすことによって、持続可能な人間と環境の関係を築こうとするアプローチです。エドワード・レルフが『プレイス・アンド・プレイスレスネス』で論じたように、場所への真の愛着やコミットメントは、そこに「インサイダー」として深く関わることから生まれます。定住性に基づく倫理は、自己が依存する自然環境やコミュニティへの直接的な関わりを通じて、環境負荷を減らし、生態系との調和を目指す実践を促す可能性を秘めています。地産地消、地域資源の活用、伝統的な知識に基づく環境保全活動などは、このアプローチの具体例と言えるでしょう。
しかし、人新世における環境問題がグローバルなスケールで進行していることを踏まえると、定住性に基づく倫理やローカリズムだけでは限界があることも指摘せざるを得ません。特定の場所への愛着や責任だけでは、地球全体の気候システムや生物圏といったグローバルなコモンズに対する責任を十分に説明できるでしょうか。また、気候変動による海面上昇や自然災害によって、特定の場所への「定住」そのものが不可能になる人々(気候難民)が増加する可能性も指摘されています。このような状況下で、場所への強いコミットメントが、外部からの移動者に対する排他性や、自らの場所への影響を軽視する姿勢につながるリスクも孕んでいます。ハイデッガーが『建築、住むこと、思考すること』で問いかけた「住むこと」の根源的な意味は、技術時代の「無根性」への応答として重要ですが、人新世においては、その「住むこと」を地球全体、あるいは異種なる存在との関係性の中でいかに再定義するかが課題となります。
人新世における新たな場所論への展望
人新世は、移動性と定住性という二項対立を超えた、新たな場所論の構築を私たちに求めていると言えるでしょう。これは、単なる物理的な空間や静的な文化的な場所としてではなく、プロセスや関係性の中で絶えず生成され、人間だけでなく非人間存在(動植物、微生物、さらにはテクノロジー)もその構成要素となりうる動的な「場所」として捉え直す試みです。ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論が示唆するように、場所は多様なアクターの相互作用によって編み上げられるネットワークの一時的な結節点と見なすことも可能です。
この新たな場所論においては、グローバルな移動性がもたらす環境負荷を認識しつつも、その移動性が生み出す可能性(異なる場所の知見の交換、地球規模の課題解決のための協働)を否定せず、いかに責任ある形で移動や交流を行うか、という問いが重要になります。また、特定の場所への定住に基づく責任と、地球全体に対するグローバルな責任をいかに統合するかという課題も浮上します。これは、「ローカル」と「グローバル」を対立軸ではなく、相互に影響し合い、補完し合うものとして捉え直す視点を必要とします。
人新世の場所論は、物理的な場所の喪失(ソラスタルジア)に直面する人々の経験や、サイバースペースのような非物理的な「場所」の増大といった現象も視野に入れる必要があります。私たちは、もはや特定の固定された場所のみに存在しているのではなく、複数の場所、あるいは場所と場所の間に「間存在」として生きているのかもしれません。この多層的で流動的な場所のあり方の中で、私たちは自己のアイデンティティをいかに確立し、他者や非人間存在との関係性をいかに築き、環境に対する責任をいかに引き受けていくのか。
人新世における場所の哲学は、単なる地理学や環境心理学の問いにとどまらず、存在論、倫理学、政治哲学といった広範な領域を横断する学際的な対話を必要としています。移動性と定住性のはざまで揺れ動く現代において、地球全体を視野に入れた新たな「住むこと」の意味を問い直すことこそが、人新世における環境問題と人間存在の根源的な問いに向き合うための重要な一歩となるでしょう。